【目次】
『新島襄旧宅』レポ
・土間
・和室
・展示室
・縁側
・古墳公園
・『新島襄旧宅』の情報
・『新島襄』について
『新島襄旧宅』に行ってみよう!
桜の季節に来たいと決めていた場所です。
葉桜も、散った花弁も、オツな感じがしました。
『新島襄旧宅』の土間
入口の右手に、土間と物置があり合わせて15畳程度ありそうでした。かなり大きな長屋だそうです。長屋の間取りが農家の家と違うところにも、心がそそられました。
間取り図では奥に玄関があるため、この入口は本来の勝手口かもわかりません。
『明治のお婆ちゃんより』の『炊事場の心得』が書いてあり、昔よく聞いた内容で「うんうん」と懐かしく思いました。
『草履』に足を入れてみると、鼻緒が爪先寄りで、足ユビを背屈させると草履も一緒についてくるのでビックリしました。歩いてみたくなりました!
『新島襄旧宅』の和室
7.5畳と10畳の和室が続いていました。
二軒長屋のうちの新島家が暮らしていた東半分を切り離して50m程西へ移築し、西半分は展示室と管理人室に新築したそうです。
上段の間には新島襄先生の作品が飾られていました。
『良心の全身に充満したる 丈夫(ますらお:立派な男の意)の起こり来らんことを』
教育宣言の中で「一国を維持するのは決して2、3の英雄の力ではない。実に一国を形成する教育があり、知識があり、品性の高い人たちの力によらなければならない。~中略~この『一国の良心』ともいうべき人たちを養成したいと思う」と述べた。
『新島襄の良心の碑』POPより抜粋
『新島襄旧宅』展示室
新島襄先生の生い立ちから事績などが展示されていました。
12歳の時(1855年)に描いたという『鉄怪千人図』はしばらく見入ってしまいました。
明治7年にアメリカから10年ぶりに帰国し、安中の新島家で両親と再会した時の様子や、肖像画なども。
新島襄先生が、脱国したことや、ここでは3週間しかいなかったこと、自責の杖の話など、だんだん思い出しました。
リウマチだったことにはビックリしましたが、それも忘れていたのかもしれません。
『新島襄旧宅』縁側
豊かな藁ぶき屋根といった印象でした。
スタンプ類や「八重の桜」で出演者が使用した草履も飾られていました。
『新島襄旧宅』北側の古墳公園
新島襄旧宅の裏庭のような古墳公園には、石碑が沢山ありました。
『新島襄先生之碑』この碑は、湯浅半月(湯浅治郎の弟で本名は吉郎)によって新島襄先生の事績を簡潔に記述したものだそうです。
- 漢詩浅間山の碑
- 明治百年記念植村碑
- 詩碑「十二の石塚」
- 漆園の記碑(市指定重要文化財)
- 皇太子殿下御誕生記念公園
- 古墳
花も綺麗に咲いていました。
鉄棒は飾り物のように設置されてました。
『新島襄旧宅』の情報
昭和39年12月30日、安中市の史跡に指定。
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜日・年末年始
駐車場:15台(大型車不可)
観覧料:無料
トイレ:あり
所在地:群馬県安中市安中
『新島襄旧宅』への地図
道は細いのですが、案内の看板が多く辿り着きやすかったです。
『新島襄』について
天保14年(1843年)安中藩士新島民治の長男として、安中藩江戸上屋敷で生まれた。
「日本にキリスト教精神に基づく大学を設立する」という大志を実現させたが、志半ばで病に倒れ46歳でその生涯を終えた。
その志を継ぐ者は日本中に広がり、日本の教育・思想に大きな影響を与え続けている。
新島襄旧宅パンフレットより抜粋
ラットランドのグレイス教会で所蔵されていた『新島襄の肖像画』で、作者・製作年代ともに不明だそうです。
おわりに
学生時代に来たとき「へぇ~。でも庭、素敵~」といったような記憶ですが、今回は新島襄先生の同志社大学への思いなど、苦しくなったり拳に力が入ったり胸が打たれました。
家に帰ってから、この日に買った資料や本を一気に読み、ますます充実出来ました。